新しい風 −若き日の依田勉三−
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新しい風 −若き日の依田勉三−
1、開拓の夜明け-明治の十勝野

依田勉三たちが、十勝(現在の帯広)に入植したのは明治16年。入植地に到着して最初に行う仕事は、とりあえず寝泊まりができる仮小屋造りだった。それは、棒を数本、上部を縛って円錐形に立て、その周辺を草、木の皮、葦などで覆ったものや、上部が二股になったY字形の棒を2本立てて柱とし、棒を横に渡し、それに左右から斜めに木をもたせかけて草や木の皮などで覆うものだった。これらは、両手の指先を合わせたような形であることから「拝み小屋」とも呼ばれた。

やがて、木を切り倒し、ムシロを敷いて、居間、炊事場などを作り、住まいらしくなった。しかし、すきま風が多く寒さが厳しい夜は、夜通し炉を絶やすことができなかった。

開拓初期を象徴する道具といえば、開拓小屋の炉の上に常に吊り下げられていた鉄鍋(自在鍋)である。十勝開拓の先駆者、晩成社の依田勉三が「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだように、一つの鍋で全ての煮炊きをした。

勉三たちが入植した頃は、十勝は原生林に覆われていた。そのため、土地を開墾するだけでたいへんな作業を強いられた。冷害、洪水、バッタ襲来など天災も多かった。入植した勉三たちは、どのように生活していくかを先住民アイヌの人々に多く学ぶことになる。

2、依田勉三と晩成社

5万円(当時の1円は、現在の4000円)を持って、勇躍未開の大地・十勝野にやってきた勉三たち。時は明治16年5月、移民団は総勢13戸27名だった。

○事業の展開と転換

晩成社の当初の開墾計画は、政府から土地1万haの無償払い下げを受け、これを15年で開墾しようとするものだった。しかし、野火やバッタの大群の襲来、うち続く旱ばつ、冷害など現実は想像を絶して厳しく、入植から5年後の明治20年までに開墾した面積は20ha程度と目標からはほど遠いありさまだった。

こうした中で事業方針などをめぐって勉三、勝、銃太郎の三幹部の気持ちもしだいにばらばらとなり、明治19年、勉三は、単独で生花苗(おいかまない)<現 大樹町晩成>に移って牧畜事業に着手、その後、銃太郎は現 芽室町西士狩、勝は現 音更町然別方面の開拓へと独自の道を歩み、明治20年の時点で晩成社の事業は大きく転換した。

○晩成社解散

その後、晩成社は、現 帯広市川西地区や幕別町途別に合わせて350haの農地と、現 大樹町晩成に1700haの牧場を切り開いた。途別農場では、水田造成に成功した。また牛肉の生産、バターやコンデンスミルクなど酪農製品の製造、蒸気機関を利用した工場の開設なども行った。しかし、これらの先進的な事業は、会社として赤字を膨らませるだけに終わり、勉三が帯広で亡くなった大正14年2月ころまでには、そのほとんどを負債整理のため手放す結果となった。

1932年(昭和7年)、入植から50年目に解散。失敗ばかりの事業だったが、勉三たちの行動が、やがて十勝を広げていったのだ。まさに、パイオニアとして晩成社は今も語り継がれている。

参考:帯広百年記念館の展示がわかる本_帯広百年記念館

拝み小屋
開拓小屋(復元)
自在鍋
この句は有名である
開墾の様子
途別の水田風景
晩成社の有志たち
文化庁 平成15年度文化庁映画芸術振興事業支援作品