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5万円(当時の1円は、現在の4000円)を持って、勇躍未開の大地・十勝野にやってきた勉三たち。時は明治16年5月、移民団は総勢13戸27名だった。
○事業の展開と転換
晩成社の当初の開墾計画は、政府から土地1万haの無償払い下げを受け、これを15年で開墾しようとするものだった。しかし、野火やバッタの大群の襲来、うち続く旱ばつ、冷害など現実は想像を絶して厳しく、入植から5年後の明治20年までに開墾した面積は20ha程度と目標からはほど遠いありさまだった。
こうした中で事業方針などをめぐって勉三、勝、銃太郎の三幹部の気持ちもしだいにばらばらとなり、明治19年、勉三は、単独で生花苗(おいかまない)<現 大樹町晩成>に移って牧畜事業に着手、その後、銃太郎は現 芽室町西士狩、勝は現 音更町然別方面の開拓へと独自の道を歩み、明治20年の時点で晩成社の事業は大きく転換した。
○晩成社解散
その後、晩成社は、現 帯広市川西地区や幕別町途別に合わせて350haの農地と、現 大樹町晩成に1700haの牧場を切り開いた。途別農場では、水田造成に成功した。また牛肉の生産、バターやコンデンスミルクなど酪農製品の製造、蒸気機関を利用した工場の開設なども行った。しかし、これらの先進的な事業は、会社として赤字を膨らませるだけに終わり、勉三が帯広で亡くなった大正14年2月ころまでには、そのほとんどを負債整理のため手放す結果となった。
1932年(昭和7年)、入植から50年目に解散。失敗ばかりの事業だったが、勉三たちの行動が、やがて十勝を広げていったのだ。まさに、パイオニアとして晩成社は今も語り継がれている。
参考:帯広百年記念館の展示がわかる本_帯広百年記念館
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